葛城遼彦

私、葛城遼彦が書いた駄文を発表するブログです

海行かば (二)①

               (二)

 

 なぜ、生涯口外しないと誓った青春の日の記憶をこの日に語る気になったのか、はっきりしたことは私にもわからない。

 旧軍に身を置いたことのない若造で、元陸上自衛隊の法律幕僚で二佐ながら、いつも知らん顔をしている上田が、あの日は妙に神妙な顔をして聞いていたのが、私の退屈の虫を騒がせたこともあったろう。

 しかしそれだけではなかった。後になって思えば、今から五十年前の今日、五月一日は、私が九死に一生を拾った日であったことが、私にあの記憶をよみがえらせて、あの話をさせるようにしむけたのではないか、そんな気がするのだ。

 もしあの時、北海道の襟裳岬沖、八マイル(約十三キロメートル)で、私が散華していれば、ちょうど五月一日は、私の祥月命日であった。

 昭和二十年四月二十九日、北千島占守(シュムシュ)島の片岡湾を出港して、本土の大湊に向かった船舶があった。その船舶の中に私の乗り込んだ「長和丸」があった。この船は、佐世保鎮守府管轄の船で、その前後を護衛する二双の駆逐艦があった。いずれも、全長およそ百メートル内外、幅十一メートル、速力は三十八ノット(時速六十八キロ)であったと記憶している。

 駆逐艦は、砲や魚雷を主要兵器として、敵の主力艦や潜水艦、それに航空機などを攻撃・撃破する任務の小型快速艦である。ここでは、商船に満載した兵員や物資を、目的港まで、敵潜水艦からの攻撃を防御し、それに対する砲・魚雷攻撃で敵艦船を駆除することを目的として、「長和丸」の前後についていたものと思われる。兵装としては、二十五センチ砲四門、二十五ミリ機関砲一門、それに魚雷発射管二基、高角砲二門、それに爆雷投射機が二基あったと記憶している。乗組員は五十名程度であった。

 

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