葛城遼彦

私、葛城遼彦が書いた駄文を発表するブログです

海行かば (二)②

 さて、一路大湊へと言いたいところだが、実際は、そうはいかなかった。

 しばしばジグザグに舵を取って、太平洋からオホーツク海へ、オホーツク海から太平洋へと航路を変更しつつ目的地に向かって進んでいったのであるが、この頃は、往路の時とは違い、オホーツク海の流氷も随分少なくなったという印象があった。船足も、往路とは違い速く感じられた。しかしそれは同時に、敵潜水艦もそれだけ活動しやすくなっていることを意味しており、わが艦船にとっては、むしろ危険度が格段に増していたと言っていい。

 「長和丸」は、商船と言っても、御用船である以上、少数ながら海軍の正規の軍人も乗り込んでいた。私もその一人である。

 そして、当然のことながら、それなりの兵装もなされていた。先だって、この年の一月から、函館のドックで、海防艦並の装備の大改造が行われていたのである。その大改造は三月中頃までかかった。以前からこの船は、十三ミリ機関銃二丁と七.七ミリ機関銃一丁は持っていたが、肝心の魚雷や爆雷の投射機能が皆無であったので、爆雷投射機を二基、二十五機関砲を一基、そして高角砲を一基新設した。それで、潜水艦との砲撃戦には、互角以上に戦える火力を積んだことになる。

 ところで、占守島は、明治八年にロシアとの間で結ばれた千島樺太交換条約によって我が国の領土となった千島列島最北端の島で、カムチャッカ半島からそれほど遠くない。海軍の主力は幌筵(ホロムシル)島の対岸にあって、この島では陸軍の方が圧倒的に多くの兵員をつぎ込んでいた。昭和十八年にこの島に集結した日本軍の写真では、将校陸軍十四に対して、海軍は四の割合であった。

 しかし、海軍では「占守島は我が領域」という誇りがあった。なぜなら、この島を探検した郡司大尉は海軍軍人だったからである。我が海軍には「占守」と名付けられた海防艦すらあった。この海防艦は、北方警備のために建造された艦であることは間違いないのだが、大東亜戦争が始まると南方に派遣され、物資の輸送などに使われ、挙句の果てには、終戦後ソ連に賠償艦として引き渡されるという悲劇的な運命をたどった。

 なお、郡司大尉は、文豪幸田露伴の実弟である。

 

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