葛城遼彦

私、葛城遼彦が書いた駄文を発表するブログです

海行かば (四)①

               (四) 

 

 私は、元々船乗りだった。船員学校に在籍していた当時から砲術は好きな科目であり、当然その心得もあったから、海軍に志願してのち、しばらくは館山の砲術学校に派遣されていた。その砲術学校で小型銃砲の操作方法は習っていたので、二十ミリ機関砲を任されたのは当然と言えば当然であった。

「交替であります。」

 交替要員の橘三等下士が来たので、私は「決戦は明日だよ」と言いながら交替し、仮眠室で仮眠をとった。

 

 目が覚めたころには、日付が変わっていた。

 私は、隣で仮眠していた同期の一色と誘い合ってバスに入った。

 バスというのは、洋風の浴槽のことである。浴室のこともバスという場合もある。海軍では英語の使用もなされており、陸軍とは違って、言葉まではそれほど神経質になってはいなかった。

 いつもなら、バスの湯はかなり濁っているものだが、その日は、非常に澄んでいた。一色は、「こんな澄んだ湯は三年ぶりや」と無邪気に喜んでいたが、私にはそれが不吉な予兆に思えてならなかった。

 私は、しばらく湯に浸かっていたが、突然、湯船から飛び出した。頭から風呂の湯を浴びた一色は、

「おい、何するねん。」

と、びっくりしたような顔をして私を睨んだ。

「何でもいい。早くバスから出るんだ。」

「なんでやねん。」

 私は一色の問いには答えず、腰にタオルを巻いただけの格好で、保安区に戻った。そこで身支度をしようとして、ポールから外洋を眺めると、真っ赤な朝雲と、凪渡った海が見えるばかりであった。何だか、このような景色は見納めになるような気がしてならなかった。

 時計の針は、午前四時四十五分を指していた。

 その時だった。

 

 

 

海行かば (三)②

 出港三日目頃から、北海道に近づくにつれて、潜水艦の攻撃から逃れるために、沿岸から離れて進路を自由自在に変えて航行するようになった。

 四月三十日、船団は根室港沖一〇〇マイルを航行するまでになっていた。一マイルは約一.六キロメートルである。つまり、三十日には、根室の沖一六〇キロに達していた勘定になる。

 午前四時四〇分頃、「潜水艦の形勢あり。全員配置に付け。」の警報が船内に響き渡り、全乗組員は急いで配置についた。もちろん私も配置に付いた。一時、船内を行き交う兵隊の軍靴の響きで、小声では通話が聞き取れないくらいになった。しばらくして我が船団からの攻撃が始まり、爆雷の炸裂音、船体への衝撃が文字通り体に伝わってきた。約二時間後、総員配置は解除された。

 しかし、いよいよ来るものが来るな、という予感が、武者震いとなって全身を貫いた。いよいよ決戦だと思う心が、自然と心を勇み立たせ、体が震えたのである。

 昔から、船乗りに言い伝えられた諺に、

『天気晴朗、涙ぐむ武者震い』

というのがあるが、その日は天気も曇りがちで、天気は快晴でも晴朗でもなかった。時々は氷雨すら降っていた。

 私は、自分の銃座に座りながら、巡回して来た砲座指揮の杉野兵曹長に、

「敵さん、今日は来ませんね。」

と冗談を言った。

「そうだね。そう願いたいよ。」

という杉野兵曹長の返答を聞いて、杉野さんもこの諺を信じているのだな、と心の中で納得していた。

 

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海行かば (三)①

               (三)

 

「昭さん、お前ほんまに一等兵曹か。将校でもないのによう知っとるな。俺も伍長やさかい、あんまり違わんのに感心するわ。ほんで続きはどうなるんじゃ。」

 進行役の武雄叔父が身を乗り出して言う。無類の話好きである。

「叔父さん、叔父さんの話聞かせて下さいよ。声かれてきましたわ。」

 私は、親類の女性が「お兄さん、お疲れが出ませんように。本当に声かれてきておられますよ。」と言いながら運んで来てくれたお茶をすすった。

「叔父さんは、前の戦争の時に多くの敵兵を倒した歴戦の兵士だったと聞きます。」

「その話はまた後でしたろ。」

「する度に人数違ったら信用なくなるからね。」

 そう親類の女性がからかうと、

「何を言うんや。暗闇の戦闘もあるんやで。一人や二人違っても何が悪いんや。お前も黙って昭さんの話聞いとれよ。」

 と言ったが、私の話を聞いて、少し自分の話もしたくなったのか、

「俺も少し話するわ。昭さんはちょっと休んどいてくれ。」

 そう言って武雄叔父は、半分むきになりながら話し始めた。

「俺も敵さんを随分殺したわ。しかし、敵さんを殺したことを恥じてはおらん。手柄という気はないけれど、かわいそうだと思ったこともないな。密林の暗闇の撃ち合いや。俺は小銃、相手は自動小銃や。それでも俺は相手を倒したんや。食うか食われるか。運が悪かった方が弾に当たるっちゅうだけの話やな。

 俺の戦友、何人も死んでいる。仇を討っただけや。もちろん個人としての恨みはない。だから、戦争が済んだら、皆仲良くいけるんや。それが戦争や。」

「それでも狙ったんやろ。」

 大きな声を聞いて様子を見に来た武雄叔父の娘の鈴代が口を挟むと、

「鈴代まで何を言うんや。あそこで俺が弾に当たってたら、お前はこの世にはおらんのやぞ。」と興奮気味に言い、続けて、

「狙わんと小銃みたいなもん当たるかいな。しかし俺は自慢できること一つあるんや。それはな、逃げる敵は一回も狙ったことないちゅうことや。しかし、暗闇や。狙った言うてもよう見えん。それでも撃った弾が皆当たるんや。こればかりはどうしようもないわ。」

「それでは僕の話を続けます。」

 私は、親子喧嘩が本当の喧嘩にならないように、気を遣った。

 

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海行かば (二)②

 さて、一路大湊へと言いたいところだが、実際は、そうはいかなかった。

 しばしばジグザグに舵を取って、太平洋からオホーツク海へ、オホーツク海から太平洋へと航路を変更しつつ目的地に向かって進んでいったのであるが、この頃は、往路の時とは違い、オホーツク海の流氷も随分少なくなったという印象があった。船足も、往路とは違い速く感じられた。しかしそれは同時に、敵潜水艦もそれだけ活動しやすくなっていることを意味しており、わが艦船にとっては、むしろ危険度が格段に増していたと言っていい。

 「長和丸」は、商船と言っても、御用船である以上、少数ながら海軍の正規の軍人も乗り込んでいた。私もその一人である。

 そして、当然のことながら、それなりの兵装もなされていた。先だって、この年の一月から、函館のドックで、海防艦並の装備の大改造が行われていたのである。その大改造は三月中頃までかかった。以前からこの船は、十三ミリ機関銃二丁と七.七ミリ機関銃一丁は持っていたが、肝心の魚雷や爆雷の投射機能が皆無であったので、爆雷投射機を二基、二十五機関砲を一基、そして高角砲を一基新設した。それで、潜水艦との砲撃戦には、互角以上に戦える火力を積んだことになる。

 ところで、占守島は、明治八年にロシアとの間で結ばれた千島樺太交換条約によって我が国の領土となった千島列島最北端の島で、カムチャッカ半島からそれほど遠くない。海軍の主力は幌筵(ホロムシル)島の対岸にあって、この島では陸軍の方が圧倒的に多くの兵員をつぎ込んでいた。昭和十八年にこの島に集結した日本軍の写真では、将校陸軍十四に対して、海軍は四の割合であった。

 しかし、海軍では「占守島は我が領域」という誇りがあった。なぜなら、この島を探検した郡司大尉は海軍軍人だったからである。我が海軍には「占守」と名付けられた海防艦すらあった。この海防艦は、北方警備のために建造された艦であることは間違いないのだが、大東亜戦争が始まると南方に派遣され、物資の輸送などに使われ、挙句の果てには、終戦後ソ連に賠償艦として引き渡されるという悲劇的な運命をたどった。

 なお、郡司大尉は、文豪幸田露伴の実弟である。

 

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海行かば (二)①

               (二)

 

 なぜ、生涯口外しないと誓った青春の日の記憶をこの日に語る気になったのか、はっきりしたことは私にもわからない。

 旧軍に身を置いたことのない若造で、元陸上自衛隊の法律幕僚で二佐ながら、いつも知らん顔をしている上田が、あの日は妙に神妙な顔をして聞いていたのが、私の退屈の虫を騒がせたこともあったろう。

 しかしそれだけではなかった。後になって思えば、今から五十年前の今日、五月一日は、私が九死に一生を拾った日であったことが、私にあの記憶をよみがえらせて、あの話をさせるようにしむけたのではないか、そんな気がするのだ。

 もしあの時、北海道の襟裳岬沖、八マイル(約十三キロメートル)で、私が散華していれば、ちょうど五月一日は、私の祥月命日であった。

 昭和二十年四月二十九日、北千島占守(シュムシュ)島の片岡湾を出港して、本土の大湊に向かった船舶があった。その船舶の中に私の乗り込んだ「長和丸」があった。この船は、佐世保鎮守府管轄の船で、その前後を護衛する二双の駆逐艦があった。いずれも、全長およそ百メートル内外、幅十一メートル、速力は三十八ノット(時速六十八キロ)であったと記憶している。

 駆逐艦は、砲や魚雷を主要兵器として、敵の主力艦や潜水艦、それに航空機などを攻撃・撃破する任務の小型快速艦である。ここでは、商船に満載した兵員や物資を、目的港まで、敵潜水艦からの攻撃を防御し、それに対する砲・魚雷攻撃で敵艦船を駆除することを目的として、「長和丸」の前後についていたものと思われる。兵装としては、二十五センチ砲四門、二十五ミリ機関砲一門、それに魚雷発射管二基、高角砲二門、それに爆雷投射機が二基あったと記憶している。乗組員は五十名程度であった。

 

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海行かば (一)③

 私は、昭和十七年の春、大湊海兵団に入団した。十六歳になったばかりであった。

 階級は二等水兵である。

 そして、昭和二十年八月まで、主にアメリカ海軍と戦っていた。

 もともと私は船員学校にいたから、成績もよく、動作も敏捷であって、上官の受けも格別によく、昇進も早かった。十八年には上等水兵、十九年にはニ等兵曹に昇進した。

 二十年には一等兵曹に昇進していた。

「終戦の時、私は十九歳でしたが、、、私は勇敢でしたよ。」

 その時、淡路島からきていた岳父の弟の実弟の谷口武雄が、

「おい、一等兵曹というと、陸軍でいう兵長かい。」と聞いてきた。

「いや、違います。」

「曹が付くから下士官やな。」

「はい。軍曹というところでしょうか。」

「ほ、ほう。昭さん、偉いんじゃのう。」

 座が静まり返った。

 その時、私の伯父にあたる梶原という男が、気をきかして、

「四面海なる帝国を

 守る海軍軍人は

 戦時平時のわかち無く

 勇みはげみて勉むべし」

と泣きながら歌い出した。

「水漬く屍と潔く

 生命を君に捧げんの

 心だれかは劣るべき

 勤めは重し身は軽し」

  ・・・・・・

 合唱は続いた。

 しばらくして、

「軍歌斉唱やめ~え。辞めい。皆、昭君の話を聞こうじゃないか。」

   昭和十三年兵で、「あらくれ兵長」の異名で呼ばれていた淡路の武雄叔父がドスの利いたよく通る声で、一言うなった。鶴の一声であった。

 だいぶん、酒のまわりが早かったようだった。

「おまえらの意気はよろし。しかし、なんぼなんでも通夜の晩なんやぞ。」

 私は、それでは話の続きをいたします、と言ってから、

「私は、二等兵曹になった時に、もう一人前の水兵になったつもりでした。海軍でいう、塩っ気の効いた水兵になった、と正直思いました。」

「お前ら、二等兵曹やぞ、軍曹や。その上で話を聞け。はい、二等兵曹、続けて。」

 武雄叔父は、もうすっかり進行役である。

 

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海行かば (一)②

 ところで、昨年の五月一日のこと、東京から北海道北見に移り住んでいた岳父母のうち岳母が、突然逝去した。

 その前日午後十一時頃、岳父から「母さん、倒れる」との電話を受け、すぐに駆けつけ、その臨終にも立ち会った。

 岳母は、翌一日の午前三時に永眠した。少し寒いと言って病院に運ばれ、あとは、多少大きな鼾をかいて、しばらくして平穏な眠りにつき、静かになった。静かになったと思ったら、命の火は消えたのであった。周りの人達は、すぐには来迎があったことに気付かなかった。

 岳母は、生前常々「あまり人様に迷惑をかけずに、私は静かに死にたい」と言っていたが、その言葉どおりに死んでいったと言っていい。

 法事が始まって、その夜半、宿直の役をかって出た私は、通夜の席であるにもかかわらず、同じく通夜の役をかって出た親類の人達と酒を飲んだ。夜中には、検事を辞めて今は奈良で弁護士をやっている上田が駆けつけてくれた。

 仏の前で、宿直の人達が「上田さんが来てくれたよ、母さん」と呼びかけると、仏は「ウン。ウン。ウーン。」と応じた。

 私は、もともと海軍の一等兵曹で、人の死に毎日のように遭遇し、わりと慣れているはずだったが、このときは何かゾーとして、何も言えなかった。

 酒好きな上田も、そのときばかりはしばらくじっと押し黙ったままだった。

 通夜の席は、始めは岳母の思い出が中心で、真面目くさった話をしていたが、そのうちにくだらない話に移り、やがて酒の回りも手伝って、誰するともなく、それぞれ勝手気ままな、己の若い日の苦労話に移っていった。

 通夜は、通宵の意味で、夜通しというのが本来の語意である。日本国中どこでもたいして変わりはないだろうが、燈明を消さず、線香を絶やさず、夜を徹して仏をお守りする日本古来の仏教的慣行である。

 その席には、酒が付き物である。

 通夜に飲む酒は、お神酒である。お神酒は、邪気を払う。従って鬼は近寄れない。だから通夜の酒は、あながち不謹慎ではない。

 私も酔うほどに、勧められて少年時代の思い出を語った。

 それは、戦いに明け暮れた海軍の年少兵の戦争の日々であった。

 年少兵時代のことは、それまで誰にも明かしたことがない「私の秘密」である。

 勿論、同じ海軍の軍人で予科練習生出身の長兄や、妹は知っていた。だが、兄は寡黙の人であるから他人に語るはずはないし、他人は誰も知らなかったはずである。

 私が少年時代の身分を話し始めると、宿直の人達は唖然として黙っていたが、そのうちに、私の話に耳を傾けはじめた。

 

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海行かば (一)①

               (一)

 

  定年少し前に農林省林野庁の役人を辞めた私は、しばらくその外郭団体に籍を置いていた。それも半年前に定年になった。

 現在は、北海道の北見市内にある関連会社に招かれて、若い職員の指導を任されている。

 私は北海道育ちだが、生まれは岐阜の大垣で、小さい頃に父母に連れられて北海道に移ってきたのであった。他の人達がそうであったように、昭和二十二年頃までは私も士族を名乗っていた。

 今では、士族などと言ってもほとんど知る人もいないが、士族とは、武士の家柄の者に与えられ昭和二十二年まで存在した族称で、法律上の特典はなかったが、それなりに尊敬されていた。若い私が士族を名乗っても、別に何の指弾を受けることもなかった。

 今でも、北海道移住の前後では、岐阜の大垣から両親に連れられて、兄と一緒にいくつも汽車を乗り継いで、連絡船で津軽海峡を渡ったときのことをはっきりと思い出すことができる。

 その船中で、海軍の下士官に出会った。

「坊や、いくつだい。」

「はい、四歳です。」

「おじちゃんは二十六歳なんだ。賢そうな坊やだな。大きくなったら、何になるんだい。」

「僕は海軍士官です。」

「ほほう。海軍士官か。しっかりお勉強しないと士官にはなれないよ。」

「おじちゃんは、海軍少尉さんなの。」

「いや、おじちゃんは、まだまだ少尉さんにはなれないの。おじちゃんは、二等兵曹なんだ。」

 そこまで話したとき、水兵が、

分隊士がお呼びです。」

と、その下士官を呼びに来た。その下士官の顔は、その後長らく覚えていた。

 私は三十一歳で結婚し、妻義子との間に二人の子供をもうけたが、二人とも男子で、もう数年前に親元を離れて独立し、長男は、私の跡を継ぐような形で営林署に勤め、次男は、教育大学を出て、道内の中学校に社会科の教諭として奉職している。学生時代は有名なテニスの選手で、日本一、二と言われる程の剛腕で鳴らしたことがあった。

 そんな訳で、現在の家族は、私達夫婦二人だけである。

 

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